21時をすぎて一気に夜が降りてきた。今日は色としての暗さではなく、体感覚としての夜を強く感じる。つい数分前までは17時すぎに軽くシリアルを食べてからからずっと覚醒し、目の前のことに集中している意識があったが、一気に体温が上がり、思考力も低下し、眠気が襲ってきている。胃より上、腕から頭にかけて熱気を帯びているようにも感じる。あまりに目の前のことに集中した挙句、知恵熱が溜まっている状態のようにも思う。もしくは胃にあるエネルギー(今はほとんどない)と頭にあるエネルギーの差がこの状態を作っているのかもしれない。

そういえば、様々な軋轢や葛藤が生まれるのは、この「差」があるからかもしれないとふと思った。「差」とは「違い」とも言える。「差」というと、高低差・気圧差のようにどちらかが高くてどちらかが低いという概念のもとの違いのように思え、そしてそれが、優劣もしくは貴賎を想起させるが、そういうものは取っ払って、とにかく「違う」ということが様々な摩擦を引き起こすように思う。違うものは違うのだから、違うのだと言って終わりにすればいいもののそうはいかない。「違い」から来る摩擦は特に、「同じ」もしくは「近い」という前提がある関係において起こりやすいように思う。同僚、家族、同胞、隣国。「違うのだ」と思えない類似点のように見えるものがあるとき人は「違い」を受け入れづらい。
「あわい」とは、「あいだ」という意味だが、これは「違い」も含んでいるのかもしれない。人と人、言葉と言葉、言葉と言葉にならないもの。そのあいだにある違いをそっとすくいあげて、やさしくそこに置く。その違いを、攻撃でもなく、妥協でもなく、ともにあたらしいものをつくる触媒としてはたらかせることができたら、そこに「違う」ものたちと「違い」がある価値が生まれるのではないか。違いそのものは直接的には変化しないけれど、自分たちが変化すれば違いも一緒に変化をしていく。

ちょうど日本に行くときに読み始めていた井筒俊彦さんの『意味の深みへ』という本は「異文化間の対話は可能か」という問いについて考えるところから書かれたものだった。この本を読み進めることが、「違い」に対する関わり方の選択肢を広げる助けになるかもしれない。新たに購入した本、読みかけの本、読み返したい本。それらがたくさんあることはわかっているけれど、この2日間は自分が自分に課したいくつかの作業に没頭して時間が過ぎ去っていっている。改めて、私は、形を色を選ぶことにはずいぶんとこだわりがあるようだ。私の中では、言葉とフォントと色は並列で、それらが上手く調和していないとしっくりこない。言葉を書くのに、まずはフォントと色を決めるところから時間がかかる。これはどうしたものかと思うけれど、「表現」もしくは「人に伝わる」ことを考えると、私の中では中身と見かけは切り離せないものになっているのだろう。

そう考えると人の言葉を聞くとき、それらは私の頭の中ではどう処理されているのだろう。意味・構造を持った「言葉」として受け入れることと、波長を持った「音」として受け取ることを同時に行い、最終的にはその間にある「違い」に注目しているのかもしれない。言葉の持つ意味と構造は物語を持つ絵もしくは映像として再構成され、その材料となっている色の成分を、音として受け取ったものを色に変換した成分や質感と照らし合わせる。そんなことが行われているのかもしれない。それらは色もしくは音として存在し、そこに響く和音や不協和音を臓器が感じているように思う。セッションの前半では相手の状態にチューニングし、だんだんとそこで鳴る音を一緒に聞くようになり、最終的には微細な振動を一緒に捉えられるようになる。それができたとき、深い井戸の底から何かを組み上げたような、そのときの驚きを地球上の離れたところにいる誰かと共有したような、発見と協働の感覚が生まれる。これはクライアントにとってはあるときは自己信頼を強化し、あるときは自己の再構成を後押しする勇気となるのだろう思う。そして、自己という枠組みから離れ、世界に溶け込んでいくような感覚や体験も、もしかしたらこのプロセスから生まれるのかもしれない。それにしてもこれはやはり思考やスキルにとどまらない全人的・統合的な取り組みだ。それに耐えうる自分というのがここのところ考えていた「コーチとしての成長」ともつながるのだろう。今は色々な感覚が目覚め、それらが小さな子どものように勝手気ままに遊んでしまっている。感覚の発揮としてはそのままに、それを捉えるもう一つ(もしくは複数)の視点を確かなものにしていきたい。2019.4.16 22:14 Den Haag