今日も静かに、白みかがった青が降りてこようとしている。この青は、青と言ってもまっさらな青ではない。薄い織り目の中に少しだけ紅を含んだような、今日見ていた日本の伝統色のサイトに載っている名前で言うと「淡藤色(あわふじいろ)」のような、そんな青だ。書斎の窓から入る日差しがパソコンの画面に当たるのを防ぐために天井から1/3ほど下ろしていたブラインドを開けると、ちょうど真南の空高くに月が輝いていた。そういえば、と、日本から持ってきた「月の名前」の本を開き、ページをめくる。春に見える朧にうるんだ月の呼び名の一つである「烟月(えんげつ)」と呼ぶには輪郭がはっきり見える。気温が低いせいか、どちらかというとまだ青白く冴えた冬の月の呼び名である「青月(せいげつ)」に近いのかもしれない。南中する月の高度がまだかなり高いことからも、日本では冬の月に分類されそうだが、オランダではこれが春の月なのかもしれない。月の左下、ちょうど45度くらいのところを最も膨らんだ弧として、上弦の月から満月に向かう、「十日余りの月(とおかあまりのつき)」の頃だろうか。大きくは新月へと向かい、だんだんと円くなっていく「盈月(えいげつ)」でもある。この時期はその名の通り、何かが満ちていっていったり、取り込んだりする、そんな時期なのだと感じる。

日本語に繊細に月の違いを表現する言葉が多いのは、夏の間も日没時刻がそこまで遅くはならず、闇に月を見上げることが多かったためもあるのかもしれない。そして、「潭月(たんげつ)」「湖月(こげつ)」「江月(こうげつ)」「海月(かいげつ)」と、水面に映った月を表現する言葉も、「何の水面に映っているか」で分けられていることが興味深い。言葉が世界を分節するというのは、まさにこういうことなのだろう。昔の日本人はその感性で、細かく月の世界を分節していき、それに情緒のようなものを織り合わせていったことを時空の先に想像する。

さらに本をめくると「嘯風弄月(しょうふうろうげつ)」という言葉が目に留まった。「風景を愛で、詩歌を口ずさむこと。月を心ゆくまで眺めること」とある。月を眺め続けることができるのは、その光がときに強くなり、朧げになり、雲に隠れ、その形とともに移ろいゆくからだろう。いつもまん丸く眩しく輝く太陽には、これほど多くの名前がつけられてはいない。ひとところに留まることなく変化を続け、昼間の世界と夜の世界を行き来する儚くもしなやかな姿が「あわい」の言葉とも重なってゆく。月の光が地球まで届くのに、約1.3秒かかるそうだ。その一瞬にも近い時間の間にある遥かな旅を思ってみる。

2019.4.15 22:50 Den Haag