窓の外にゆっくりと青みがかった灰色の空気が落ちてこようとしている。数週間前、少なくとも日本に行く前には考えられなかったほど日が落ちるのが遅くなっている。朝、ベランダに続く窓を開けると、その眩しい日差しとは裏腹に冷たい風が吹いていた。天気予報を確認すると最高気温でも10度を超えるくらいという予測になっていた。そのときにきっと私は今日は外出をしないということを決めたのだろう。

数時間前の自分とはなんら変わりがないことを感じながらもこうしてまた書斎の椅子に座っている。これがもし、自分の行動を書き留めるだけのものであれば今日のような特筆するようなことをしなかった日には書くこともないと思うかもしれない。でも、そんな日ほど、自分の中のまだ言葉にも感覚にもなっていないものに目を向ける機会なのだと思う自分がいる。まだ日記に書いていなかった昨日今日のことを書き留めつつ、自分の中の小さな振動にも耳を傾けてみたい。

昨日はハーグにあるいくつかの画材店に足を運んだ。シュタイナーの遊びの教室で使っていた、重ねて光に透かすと色の濃淡が見える薄い折り紙のような紙を探すためだった。どうやら私は五感でいう聴覚と視覚が近いところにあるらしいということに気づき、そしてもっと手を使って何かを表現してみたいという気持ちが目覚めていた。書もその手段の一つではあるけれど、文字を書くと、その文字の持つ意味に意識がひっぱられてしまうように思う。文字を見た瞬間に、それが聴覚的な刺激に変わると言ってもいいかもしれない。私がほとんどのセッションで音声のみでやりとりしているのも、おそらく視覚情報が聴覚情報に変換され、情報過多のような状態、もしくは本来聞き取りたい微細な言葉以外の部分をかき消してしまうからだと推察している。シュタイナーの遊びの教室で作っていたものは現在日本ではローズウィンドウと呼ばれているらしく、検索をして見つけたローズウィンドウ作家の中にはフルート奏者の方がいらっしゃり、音階を色の組み合わせで表現しているのをとても興味深く、そして感覚的に非常に共感するものがあると感じた。そして自分でもローズウィンドウを作ってみたくなった。ただ、一般的にローズウィンドウは、万華鏡のように、複数の繰り返される対称なパターンで埋められていることが多いが、私にはどうもそれが気持ち悪く感じられてしまう。あまりに規則的で完璧、もしくは完成されたものに不自然さのようなものを感じるのかもしれない。ローズウィンドウで、もっと不安定さや波を感じられるようなものを作ってみたいと思った。いくつかの日本のサイトにローズウィンドウ用の紙がオランダの会社が作っているものであることが書かれていたので、オランダでは一般的なものなのかもしれないと思い、画材屋や美術洋品店に足を運んだのだったが、結局見つけることができなかった。帰ってきてよくよく調べてみると、その紙はドイツのシュタイナー教育用品の専門店が扱っているものだった。自分もすぐにネット上の情報を信じてしまう節があるが、つくづく日本語だけで流通している情報にはあてにならないものもが多いと感じた。マーケティング戦略としての情報に踊らされ、特に日本人は特に外から入ってくる目新しいものに手を出すことに飲み込まれてしまっているように思う。

帰りしなに少し回り道をしてオーガニックスーパーに寄ると、入り口を入ってすぐの野菜コーナーに水菜のような野菜が積まれていた。土がついて湿り気を帯びたような野菜の束に思わず手が伸びる。そういえば普段利用していた一般的なスーパーでは、Bioマークのついた野菜はあったけれど土のついた野菜は見たことがなかったように思う。そして、貝割れをもっと細くしたような野菜と、芽の出かけた豆のようなものが詰まったパックに目が留まった。やはりどうも私は今、土の力を必要としているらしい。これらに酢でもかけて食べたいという感覚が持ち上がり、ちょうど酢を探していたところリンゴ酢が近くの棚に並んでいるのを見つけた。

先日このスーパーに来たときにいいなと思ったことの一つが、売り場の一角にオーブンがあり、そこで焼かれたパンが売られていたことだ。作っている場所で、作っている人から買う。それがとても自然なことのように思えた。

先ほどの野菜たちに加え、おそらく旬を迎えつつあるのであろう白アスパラガスと玉ねぎ、にんにくを買って店を出た。日本から帰ってきてまだ肉も魚も食べていなかったことに気づいたが、身体がさほど必要としていないのだろう。

こうして書いてくると、日々の暮らしの中で感じることはいくら書いても書ききれないように思う。昨日今日の食についても書ききれなさそうなので、ここでは今日の小さな気づきを書き留めておきたい。

今日気づいたのは、野菜の味は1日で大きく変わるということだった。昨日、オーガニックスーパーで白アスパラガスを4本買い、昨日と今日、2本ずつほぼ同じように調理して食べたのだが、その味が全く違って驚いた。それは単に個体差や株の違いといったものではなく、おそらく、世の中的にはアクやえぐみと呼ばれるものの味の違いなのだと思う。1日経ったものは苦味と、食べたときの筋っぽさも増えているように感じた。確かに1日経って、昨日は張りがあって生命力に満ちていた白アスパラガスが今日は少し茶色がかってしおれてしまっていた。元が新鮮な野菜だったから鮮度が落ちることによる味の違いを強く感じたのかもしれないけれど、これはきっと多くの野菜で起きていることだろうと思った。それに気づかず、鮮度の低いものを食べ続けていくことを想像すると、身体も苦味のようなものを帯びてくるような感覚を覚える。それを浄化するのに、おそらく多くのエネルギーを使うだろう。その日食べられる分だけを、できるだけ作り手に近いところから買う。野菜や食品の廃棄を減らすことまでは貢献できないかもしれないけれど、せめて自分ができることをすることが、自分自身の身体にとってもいいのだろう。

22時をまわり、向かいに並ぶ家々の窓の数カ所からオレンジの灯りがもれている。窓の外にはすっかり、茶色がかった闇が落ちている。夜の暗闇というのは青みがかっていると思っていたけれど、そうではなかったことに今日はじめて気が付いた。身体の感覚に意識を向けてみると、心臓と、そのまわりを囲むであろう胸骨の間あたりに少しふわふわとした感覚がある。胃の下側の壁には少し重みを感じる。内臓と感覚と感覚は結びついているというがきっとそうなのだろう。今回、日本から、滞在前に注文しておいた10冊ほどの本を持って帰ってきて読み進めおり、そのほとんどが心理学系の本だったのだが、それに加えて以前購入した陰陽五行関連の本を読み直したいと思っている。心と身体は切っても切れない関係にあり、どちらかというと身体という土台に心や思考がのっているという認識を最近改めて強く持っている。身体は病気になっていなければいいと思われがちだが、日々の食や身体の状態が与える影響の大きさというのは計り知れない。今ある興味を深め、人の役に立つ形にしていくのにどれだけ時間がかかるだろうかという気がするけれど、こうして言葉にしていくことは自分の中で漠然と広がるものたちを結びつけ、体系化していくことのつながるのではと思っている。そして今、何もなかったと思うような一日を過ごした自分にこれだけ書くことがあったのだということに驚いている。これまでアウトプットをしないまま、何をしてきたんだと思うくらいだ。

更に茶色味を帯びた空に、黒いカモメの形をした凧が溶けていこうとしている。2019.04.14 22:22 Den Haag