時刻は20時半を回っているが外はまだ明るい。少し遠くで、鳥の声も聞こえている。最近は周囲の家の人たちがそうしているように、暗くなりよっぽど困るほどにならないとあかりをつけないようにした。もう少し日の入りが遅くなれば1日中あかりをつけなくてよくなるだろう。それはとても、自然な状態のように思う。そんな中珍しく、向かいの家の食卓のある部屋にオレンジ色のあかりが灯っている。キレイにセットされた食卓を大人たちが囲む。どうやら住人の知人のカップルもしくは家族が食事を共にしているようだ。

その様子を見て、先ほど読んだ本に、ゲームが直感を鍛えるということが書いてあったことを思い出した。ゲームと言っても、デジタルなゲームではなく。実際にリアルな場で人と行うゲームだと言う。なぜその話を食卓を囲む大人たちを見て思い出したかと言うと、オランダの人は大人もボードゲームやカードゲームでよく遊ぶという話を何度か聞いたことがあったからだ。確かにアムステルダムで訪れた書店でもボードゲームがたくさん積まれていた。日本に行く前に会ったオランダ人の友人もちょうどその前日に友達とカードゲームをして遊んだという話をしていた。そのときに聞いたのは、おそらく日本で「コードネーム」と呼ばれているドイツ発祥のカードゲームの話だった。それは端的に言うと、あるものの名前をその名前以外を使って伝える(例えば「車」は「乗り物」と表現することができるが、「飛行機」など同じように「乗り物」という言葉で表現されるものと区別して伝える必要がある)ゲームである。こういうゲームを小さい頃から大人になっても楽しんでいることでオランダに住む人は多様な背景を持つ人たちとコミュニケートするすべを学んでいる、もしくは多様な背景を持つ人たちとコミュニケートするために、遊びの中からその方法を学んでいるのかもしれないと、その話を聞いたときに思った。そして、今日読んだ本に書いてあったことが正しいとすると、このゲームによって直感力も鍛えられているのかもしれない。直感力とはまた違うが、オランダの人はとにかく自分の好きなものを見つけるのが上手だと感じる。それも、目の前のものに対して自分はどう思うか、それに対して何をするかということを教育の中で身につけてきたからだと聞いたが、好きという感覚にしろ、直感にしろ、そう感じたことを信じる、自分への信頼がオランダの人は高いように思う。

翻って日本を見ると、子どもだけでなく大人も自分への信頼が低いというのはこれまでにも強く感じてきたことだった。大学や勤め先、資格、ブランド物、ステイタス、など、人が属しているものもしくは所有しているもので人を判断するのは、自分の中に基準がないからだとも言える。そしてそれを纏う人々も、そこに自分自身にとって本当に大切な価値観や体験があるかどうかではなく、人からどんな評価を受けるかを気にしてどこかに所属し、何かを所有していることも多い。また、そこに自分自身にとって大切な価値観や体験があるにも関わらず、世の中的な風潮や外的な基準と照らし合わせて「これでいいのだろうか」と悩んでいる人も少なくない。悩みや葛藤があること自体は決して悪いことではないと思うけれど、外的なものを基準にしてそれについて悩むことで、エネルギーの無駄遣いをし、本来発揮できる力を発揮できなくなってしまっているのはとてももったいないことだと思う。

このことについての解決につながるのはもしかしたら、先ほど夕食を食べていたときに思いついた、人工知能や機械にコミュニケーションを教えることに関わることはできないかというテーマかもしれない。テクノロジーがもはや私たちの生活とは切り離せないものになり、生活の中に入り込んでいることは間違いない。コミュニケーションを扱う者として、当然、人間と人間のコミュニケーションにこそ起こることがあると信じてはいる。しかし、実際に現在、多くの人に短い時間で影響を与えるのはテクノロジーである。だどすれば、コミュニケーションの専門家がもっとテクノロジーに関わることで開ける可能性があるのではないか。テクノロジーとの関わりで人が自己信頼を持つようになるというのは何とも皮肉な話だと以前の私なら思ったかもしれない。でも今は、そうでもしないと特に日本人は自分自身の基準を持つことができないまま、ロボットのようになっていしまうのではないかと危惧している。それとともに、人間、もしくはコミュニケーションと対極にあるものにアプローチすることによって、新たな道が開けるのではないかという気がしている。同時に、人間には決して統計的データで対応・再現することのできない領域があるのだとも思う。「心がないロボットにコーチングができるか」と否定するよりも、まず、自分自身が心を失っていないかを問いたい。2019.04.14 21:33 Den Haag