今日は日本で買ってきたいくつかの本を読んでいる。今までは書いてあることをそのまま自分自身の地肉にしようという向き合いかただったように思うが、新しい学びを求めるとともに、建設的批判とともに特にメソッドに向き合い、自分自身が大切にしている価値観を確認するとともにそれを融解させ更新しようという自分がいるように思う。

日本で感じた感覚が駆け抜けるように薄れようとしているが、そのうちの一つについて、思考の途中だったものについて続きを考えてみようと思う。

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まばたきをしているうちに2日が過ぎてしまった。そんな時間を過ごしていた。東京のホテルから移動をし、昨日から福岡の実家に滞在している。5階建ての建物の上にポコンとのった部屋はどの面も他の部屋や建物と接していない。南の窓からは飯盛山と呼ばれる、お茶碗をひっくり返したような山を中心とした連なる峰が、北の窓からはなだらかで大きな丘のように見える能古島が見え、南側からの方が微かな鳥の声が、僅かに大きく聞こえてくる。いつも春先には調子外れの声で鳴き始める鶯が、今年ははじめからホーホケキョと綺麗に鳴いているらしい。

 

振り返ってみると東京での時間は、外的刺激に対して反応をすることに時間とエネルギーを使い、というか、それをしていることに無自覚になり、自分自分の深いところを見つめることがほとんどないまま過ぎてしまったように思う。これまで私はずっと、日本でそんな時間を過ごしてきたのかもしれない。

細かい事象を見ていくとそれぞれで起こっていたプロセスについては理解できるはずだが、今はその事象が起こる構造について紐解いてみたい。

自分の外側にある物理的世界およびそれに対する認識が存在するというのは(物理的世界が存在しないかもしれないという可能性を除くと)オランダであろうと日本であろうと変わらない。外的な物理的世界を環境と呼ぶとすると、環境の質は大きく違うように思う。大きくは、自然か、不自然かだ。ここで言う自然というのは山や海など、人工物との対比としての自然ではなく、ものごとが、無理に力をかけらているのではなく
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福岡にいた私はここで書くのをやめ、そのままになっていた。この先に書いていきたかったのは自然(じねん)のことだ。人工物との対比としての自然ではなく、ものごとの在り方として自然かどうかという視点に行き着き、自然という言葉の意味を調べていたら「じねん」という概念に出会ったのだった。「じねん」とはもともと仏教用語で「はからいのない」という意味だったという。それを見て、ああそうか、何か環境や人に対してエネルギーを消耗する感じは「じねんではない」という状態から起こるのだなと思った。多くの場合、社会の中にある「はからい」は、何かを奪おうとするもののように思う。人より多くを持っているほうが優れているという相対的価値観の中で起こる無意識の、でもとても強いエネルギーの流れ。もしくは今の日本においてはそんな中でエネルギーを失い、本来持っている生命としての輝きを失ってしまった「じねんではない」状態。ただそこにあり、人が営みをおくっていくことを目的とするのではなく、権威の象徴や競争の中で建てられた建造物たち。そんな「じねんではない」ものたちに私はエネルギーを吸い取られていたのだ。それは、本来ではない姿を保とうとするにはエネルギーがいるということなのかもしれない。オランダに来て身体が楽になったのは人やものが、より「じねん」に近い状態でいられているからかもしれない。

「はからいのない」本来の姿とは決してのんべんだらりと楽に過ごすということではないのだと思う。人間が本来持っている生命力や想像力を発揮し、共同体としてより良い環境を作っていこうとするのが人間が本来持っている力であり姿なのではないか。現代社会では経済的な成長や経済活動が優先されがちだけども、美術や音楽などの芸術活動、探究活動も人間の心を豊かにしていくことに寄与しているのだと思う。速く効率よく成長することを追わず、今見えている世界を味わいつくすことと、静かにともにある。それが今の私が在りたい姿であり、「じねん」という言葉で表現されていることと重なるように思う。