今回の日本滞在で一番印象に残っているのは福岡県八女市の星野村で聞いた宇宙と星に関する話しだ。星(恒星)は消滅する前に超新星という爆発現象を起こした状態になるという。だから多くの場合、新たに見えるようになった光が発見されたときは、つまり星が最期を迎えたときなのだ。今は科学技術の発展とともにこういったことが分かるようになっているけれど、そうではなかった頃も、普段見えない星が見えたときは縁起がいいと思われるのではなく、どちらかというと不幸や縁起の悪いことが想像されていたというのが興味深い。人間は本能的にその光から何かの終わりを感じていたのだろうか。

そして、2万光年離れた星というのを望遠鏡で見せてもらった。2万年前に発された星の光。それを見るともう、自分が考えていることや悩んでいることは本当にちっぽけなことに思えた。宇宙に流れる大きな時間の枠組みの中では地球に起こること、人間が考えることも本当に僅かな誤差にもならないことで、たとえ地球がなくなる日が来ても、それは宇宙の流れの中に折り込み済みというか、いつか起こる自然な現象なのかもしれないとさえ思った。私たちはちっぽけで、宇宙の大きさに対しては非力である。だからこそ、だったら、争い合って、奪い合って、憎しみ合って生きるよりも、笑いあって、与え合って、愛し合って生きていけばいいのではないか。

星を見ること、星空を見上げることがこんなにも人間について考えさせられることだとは思っていなかった。夜中24時を過ぎて、楽しそうに、嬉しそうに星の説明をしてくれた施設の方に、最後に流れ星の音について聞いてみた。

7年前、福岡を離れる前に当時の同僚たちと大分県の竹田市に連れて行ってもらったことがあった。その帰り道、まだ一度も流れ星を見たことがないという私のためだったかは分からないが、街灯もない真っ暗な山道で車を停め、みんなで空一面に広がる星を見上げた。そうしているとふいに右上の空を流れ星が流れた。と同時に、私にはリンリンという鈴の音が聞こえた。「あれは大きな流れ星だった」と、そこにいた誰もが口にしたけれど、音が聞こえたのは私だけだった。でも私にはハッキリと鈴の音が聞こえていた。

この話を誰にしても「不思議な現象」というよりむしろ「不思議な子」としてしか受け取られなかった。しかし今回、東京でふとその話しをした人と、「流れ星の音が聞こえたときと同じような身体感覚の状態でいられたら」と、話しが発展したこともあり、嬉々として星のことを話してくれる方を前に、そのことについて聞いてみようという気になった

「私は流れ星の音が聞こえたことがあるんです。星を観測している人の中にはそういう経験をされている方もいますか?」そう聞いた私に、その人は目を丸くしながら答えた。「そういう現象があると聞きます!あなたはそれを経験したのですね!どうお感じになりましたか?」

聞けば、流れ星の音というのは特別大きな流れ星が流れるときに、静かな環境の中で聞こえることがあるらしい。物理的には光よりも音は遅れて聞こえるはずだが、実際に音を聞いた人は流れ星が流れるのとほぼ同時に音を聞いている人も多いという。そしてその音は、シュ、とか、ジュとか、様々な音で表現される

「私も生きているうちに一度、その音を聞いてみたいんです」数十年星の観測に携わっている人の言葉を聞いて、胸の奥が熱くなるとともに、何かあたたかいものに包まれた感じがした。

福岡を離れて丸6年が経った。その間、たくさんの出会いがあったけど、同時にたくさんのものを手放してきた。いつも機会や愛をもらってばかりで、それに対して全然返すことができていないと思ってきた。それは今も同じだ。それでも、福岡に帰り星を見て、宇宙の中の塵よりももっともっと小さな自分を、自分という存在があるかないかさえ分からないことを感じて、そんな自分が聞いた流れ星の音はきっと存在していたのだということを感じて、全て、これでよかったのだと思えた。これでよかったも何も、ただ、ここにいて、星を見上げているという身体なのか心なのか、小さな何かがあるという、それだけなのだ。全ては大きな流れの中にあって、光のはやさでゆっくりと動いている。この、その正確な大きさを計ることもできない宇宙の中で、星の光をとらえるということ自体が奇跡で、人と人が出会うということも同じように奇跡なのだ。流れ星の音をまた聞きたいと思っていたけれど、それはきっと、毎日の暮らしの中で聞こえている、当たり前になってしまっている音だったのだ。人に忘れ去られてしまったこの音を聞いて、その音色の美しさを伝えることが、私が今世までずっと繰り返しやってきたことで、今もやっていることなのだと思う。2019.04.09 18:51 Den Haag