今日も5時に差し掛かる頃に目が覚めた。薄曇りの空の下、3両ほどの車両を連ねた電車が静かに通り過ぎていく。日本に到着した日に満開を迎えたことが告げられた東京の桜であったが、コートやマフラーが必要な肌寒い日が続き、まだ散り始めてはいない。花持ちがいいのは嬉しいことだけれど、外でゆっくりと花見をできるわけではないのは少し残念だ。それでも桜の木が立ち並ぶ通りでは人々は足を止め、そこにある景色を写真に収めていく。そういえば、先日、古巣の煎茶のお店でお茶を飲んでいたときも、隣に座った人が絶えず写真を取り、お茶を淹れる様子を動画に収めていた。人々が目の前に生まれるリアルな世界を味わうよりも、画面の向こうのバーチャルな世界で評価されることに喜びを感じるようになったのはいつからだろう。あっという間に消えていく満足を追いかけ、満たされることのない相対の世界。いつまでそこで生き続けるのだろう。それでも桜は、私たちに時は留まることなく季節が移りゆくことを思い出させてくれる。それを思い出す心が私たちにはまだある。永遠に咲き続ける桜が、咲かない桜と同義であるように、永遠に生き続けることは、生きてはいないということなのだと思う。

光、音、情報で溢れる世界に普段のオランダでの暮らしの何倍もエネルギーを使うことを昨日も実感するとともに、その要因の一つが食にもあることを考えていた。今のところ魚中心の比較的重くはない食事を選んでいるが、どうもそれを消化するのにも相当のエネルギーを使っている気がする。遠く離れた産地から運ばれ、加工された食べ物たち。お茶漬けの出汁さえ味が強く感じるのは、その味付けが刺激に慣れた都会の人を満足させることに合わせられているからだろうか。そして、小腹を満たすつもりで口にしているコンビニの甘味やおつまみも、その人工的な成分から、かなり身体に負担をかけていることを感じる。これまであまり食にはこだわりはなく、「本人が自分の身体にいいと思って口にすれば、それはその人の身体にとっていいものになる」と考えてきたが、どうやらそうも言っていられないものもある気がしてきた。それとも私の身体に合うもの自体が変わってきたということか。

昨晩は寝る前に「無とは何か」について書かれたNewtonを読んでいた。科学や物理学は、世の中の現象や存在を明確に説明し、ある意味物事を細かく分節化していくものだと思っていたがどうやらそうではないらしい。「私たちの通常の認識を超えた現象や存在がある」ということや、曖昧さを明らかにし、追求するほどに哲学的な世界に近づいていくことを興味深く感じた。ある意味哲学は、世の中の現象や存在を感覚的に捉え、科学がそれを説明できるようになってきたということなのかもしれない。そうすると人間の本来持つ感覚や感性・思考というのの深みは計り知れないものがある。

「無」を追求すると、宇宙の始まりというテーマに行き着く。特に印象的だったのが「私たちが認識しているこの3次元空間は幻であり、まるでホログラムのように立体的に投影されたものなのかもしれない」という仮説だ。私たちが認識している宇宙が幻であるとするならば、この世界、そして今思考しているとは何なのか。もはや身体と心、生と死という概念さえ揺らぎ、ほぼ「無」で満たされているというこの空間に、自分自身が溶けていく感じがした。2019.03.31 7:16 Tokyo