日本に来てから4時過ぎに目覚めることが続いている。段々と、ホテルの横を走る電車の音が聞こえ、街も目覚めはじめる。そういえばまだ東京に来てから鳥の声に気づいていない。

昨日は久しぶりに、本当にとても久しぶりに、はじめて会ったたくさんの人と話をした。印象的だったのは、何人かのアーティストと呼ばれる人たちの話だ。美しさや個性といった言葉におさまらない、人間味と味わいを感じさせる作品たち。それを生み出す人たちはどうやって今の表現スタイルにたどりつき、それを発揮し続けているのだろうか。表現や手法は違えど、共通するのは自分自身の内なる感覚に正直になったということだった。ある人は専門的な学びと様々な試行の末に、ある人は型にはまらない自由さを認めてくれた環境のおかげで、ある人は病に向き合い、それを受け入れることを経て。ここに辿り着くまでは何かとの葛藤があったかもしれないし、気づけばずっと伸び伸びと表現ができているかもしれないけれど、そこには表現者である前に一人の人として、心の中にある小さな声たちと向き合い、握手をしていったというプロセスがあったということを想像する。身体の奥深いところから出てくる語られる言葉の一つ一つに、確かな振動があった。

そんな人々に出会えた喜びと、一方で抜け殻のような人々と擦れ違っていくことに対する気味の悪さのようなものが同居し、内臓にどろどろととした気が集まっていた。マニュアル通りに発された信号、周囲の環境や空間に不釣り合いな大きさの声、心が不在のまま誰とも出会わず垂れ流しにされていく言葉たち。日本にいると言葉の意味が分かるが故に、空間に漂う言葉を情報として受け取ってしまうことでエネルギーを使うのだろうと思っていたけれど、その、魂の宿っていない浮遊物を取り込まないように、自ら外の世界との交流を絶つことによる息苦しさがここにはあるのかもしれない。そして、その浮遊物の発し手たちも、この環境から身を守ろうとして出口を見つけられなくなってしまった人たちなのだろう。この街のどこで、人は心を取り戻し、人と心を通わすことができるのだろうか。

そんなことを考えながら、頻繁に聞こえるようになった電車の音の中で、昨日もらったお茶の封を切った。『土の息吹』と名付けられた自然の欠片たちにお湯を注ぐと、ふわりと湿った土と蕗の薹の香りが上った。ころりとした黒土の後ろ手の急須から小さな白磁の湯呑みに移す薄茶色に色づいたお湯が、チリチリと澄んだ高い音を立てる。あたたかいものが昨晩黒みを帯びていた内臓まで届き、深い呼吸と、体内の感覚が戻ってきた。2019.03.30 7:42 Tokyo