6時すぎ、何度目かの目覚ましのスヌーズを止めて、意識を起こしていった。遠くで篭ったような鳩の声が聞こえる。子どもの頃、夏の朝に聞いていた音だ。いつもは澄んだ声で一定のリズムを刻む鳥の声が聞こえるけれど、もっと早い時間には鳩が鳴いていたのだろうか。

珍しく、オランダの番号を使うために持っている普段使っていない方のスマホが震えた。階下に住むオーナーのヤンさんからの、日本から戻る日を確認するメッセージだった。入り口が一つで、内階段で各部屋がつながっているこの家はもとはひと家族が暮らしていたのだろう。廊下に出ると食事の匂いがしてくるし、合唱団にも入っている音楽好きなヤンさんが、クラシックをかけながら歌う鼻歌も聞こえてくる。同じ家の中に住みながら普段は全く干渉してこないけれど、私が数日家を開けていると大丈夫かとメッセージを送ってきてくれる、そんな距離の取り方はオランダ人ならではなのだろうか。

一つ上の階に住むアナさんが精神的に落ち込んで会社を休んだ後も、同僚や、ゴロゴロとカバンを引いた友達が入れ替わり立ち代り訪ねてきては一日中、時には夜を徹して彼女と一緒にすごしていた。少し落ち着いた後に、訪問客が多くて落ち着かなかったことを詫びるメッセージとともに、5週間のリトリートに行ってくるということが添えられていた。オランダの保険は代替医療に関する費用を保証するプランを選ぶこともできる。時に思い悩み、それが身体や心、様々な形で表出することを受け入れ、それに対して本人が望む対処をすることを社会としても支える。綺麗ごとだけではない人間らしさがここでは許容されているように思う。アナさんはリトリートから帰ってきたら子猫を飼うそうだ。「ヤンさんとも相談してそれがいいのではという話になったけれど、あなたは猫アレルギーではない?」というメッセージに、二つ返事で私も猫が好きで猫と暮らせたら嬉しいことを伝えた。

軽く片付けをして、ゴミをまとめ、これまでで一番コンパクトにまとめた荷物とともに部屋を出た。中央駅までのトラムの窓から、空に向かって歌うように開く花を抱えた木蓮の木が見えた。線路沿いの芝生には薄黄色の水仙がポツポツと咲き始めている。今が冬の終わりか、春の始まりか、それとももう春は来ていたのか、それは二度目の春を迎えたときに分かるのだろう。二度目があれば分かるけれど、多くのことはそれが何であるか分からないまま通り過ぎていってしまっているのかもしれない。

今私は日本へ向かおうとしている。仕事や家族との時間、目的も理由もあるけれど、この時間が何だったのか、後になってから分かるかるかもしれないし、分からないかもしれない。こうして書きながらも、いつもの、中庭に面した小さな書斎で日記を書くときとは違う感覚を感じている。刺激は基本的に外からのものであり、そこにどうにか、身体の中にある小さな感覚を結びつけている。そして、自分を見据え、言葉にすると同時に、意識が一つ外側に抜け出していく。そんな感覚を覚える。

外に出たり人と過ごす時間が多くなるとその分こうして自分と向き合う時間はなくなってしまいがちだけれども、今回の滞在の間はできるだけ日記を書き続けてみようと思う。何かが生まれることに期待するわけでもなく淡々と。それが何だったのか、後になって分かるかもしれないし、分からないかもしれない。

遠い彼方のことのように忘れそうになっていたけれど、何年も前に購入していつか読みたいと日本から大事に持ってきたケン・ウィルバーの『無境界』を最近やっと読み始め、昨晩、自分が無意識に持っている境界を取り去ってみようと思ったことを思い出した。境界を取り去ることは永遠に続く修行のようにも、でもそれを生み出す構造は一つの概念だったのだと気づく一瞬の生まれ変わりの体験のようにも思う。国境という人間が引いた概念の上を渡っていくとき、それが、「ある」とともに「ない」ことも感じる。久しぶりの「日本」と溶け合う自分を感じてみようと思う。2019.03.26 12:49 Schiphol