今日は明日からの日本滞在に向けて準備や片付け、買い物などをしている。どうも、数日先に予定があると気持ちがそちらに向き、もっと先のことに目がいかなくなるような気がする。人が緊急度の高いことを優先しがちというのはこういうことなのだろうか。長期的な視点で見たときに重要なことを日々続けていくことと、今このときを生きることを重ね合わせていきたいと思うが、そのどちらでもないふわっとしたことに時間とエネルギーを向けてしまう。自分が意識の中で重要と捉えることが実際にそうではないとは限らないとすると、アンテナとしての自分を磨いておき、その上で感覚に正直に生きるということでいいのかもしれない。

昨晩、寝る前にいくつかのアイディアが浮かび、それを手帳に書き留めていた。人に何かを理解してもらうように伝えるというのは、書き言葉もしくは話し言葉というフォーマットと、他人の理解しうる論理性の世界の中に考えを落し込まなければならない。いや、それももしかしたらそうではないのだろうか。相手の持つ文脈世界と自分の持つ文脈世界が近しい関係にあるとき、論理的に多くを説明しなくても言いたいことを共有することはできるかもしれない。しかしいずれにせよ、全く同じイメージを、全く同じ過去と未来を持って描くことは難しく、そういう意味で全てが徒労であるとともに、全く同じものを共有することそのものではなく、その、何かを交そうとするプロセス自体に意味があるのかもしれない。

2月に開催されたMONO JAPANに合わせてアムステルダムを訪れていたイラストレーターさんがそのときに話したことや私のこれまで過ごしてきた時間、今考えていることをもとに絵を描いてくれた。彼女の絵は、ただ、表面的に見たものを描いているわけではない。そこにある物語を感じ、空気を感じ、そして、彼女の中で起こった心の振動を通して溢れ出すものが結果として絵という形になっているのだと思う。彼女の描いた絵のそれぞれからあたたかい何かを感じるのは、彼女が目の前のことを視覚だけでなく身体中で感じていたからだろう。それにしても絵にすることができるというのは何と素敵な才能であり努力だろうか。私はこんな風にあなたに出会いましたよと、相手にそっと何かを渡すことができる。残念ながら、言葉は目に見えないし、相手に何か形あるものを手渡すことはできないけれど、だからこそ、当たり前のことのように繰り返される日常の中の時間であっても、この瞬間に生まれたものを言葉を通して私も伝え続けたい。

次にこの書斎に座るとき、中庭の景色は全く違ったものになっているのだろうか。そしてあと何回、桜の咲く季節に日本を訪れることができるだろうか。実家の犬はもう階段の上り下りが上手くできなくなったと聞いている。いつもの声に聞こえるこの澄んだ鳥の声も、いつも同じ鳥が鳴いているわけではないのかもしれない。
2019.03.25 16:23 Den Haag