今日は珍しく空にうろこ雲が広がっている。カモメの形の凧はポールからぶら下がり気味に空を舞い、茶色の猫がガーデンハウスの屋根の上を歩きまわり、そしてゴロゴロと屋根の上で転がって遊びはじめた。

昨晩は寝る前にエーリッヒ・フロムの『愛するということ』を久しぶりに読み直していた。愛するということは技術であり、技術を獲得する過程は理論に精通することと、習練に励むことだということから始まる。本当にそうだろうか。これまで触れてきた様々な考え方の中で今私が共感しているのは「愛する」というのは動詞であるという前提に基づくものだ。愛があるもしくはないと、何かが存在するかのように扱うのではなく、愛することは動詞であり、愛は総合的な体験であるという立場に今は立っている。兄弟愛、母性愛、異性愛、自己愛色々な愛があるけれど、部分に分け、理論で紐解き習練の対象とするとき、何か西洋医学的な、部分にフォーカスし、全体性を見ないままになってしまう気がする。部分に分けることは一見分かりやすく整理されるようにも見えるが、かえって愛を難しくしているのではないか。アインシュタインが娘に宛てて綴った、相対性理論や宇宙、神について触れた手紙の中で伝えようとしているのも結局は「あなたのことを愛している」ということだったのだと思う。結局のところ、私たちが為していること、そしてこの目に映るものは全て、愛なのだと思う。

そんなことを考えていたら、言葉一つ一つを味わっていく思考力は限界に達したのに寝付けなくなってしまった。いや、寝付けないという、入れ子になった夢を見ていたような気がする。寝付けない私は、なぜか手が伸びていた。もともと長めの腕が、さらに伸びているように感じた。そんな夢を見ている私は、さらにその夢の中でやっと眠りにつき、そこでまた夢を見た。なかなか寝付けない夜というのがあるけれど、もしかしてそのときは「寝付けないという夢」を見ていたのだろうか。

読みたい本も学びたいこともたくさんある。学びと経験を周囲に還元し、そこからまた新たな学びを得ながら日々を過ごす。そんな中で「寝付けない夢」を見る時間は、なかなか悩ましいものだけれども、きっと頭と身体の中で何か必要な処理が行われているのだろう。今日も、見るもの聞くもの触れるもの、そして目には見えないものを感じ続けたい。2019.03.24 14:00 Den Haag