気づけば、文語を使って書くことの限界について考えを巡らせていた。話された言葉を一言一句文字に書き起こしていると、いかに人が、いわゆる正しいとされている構造ではない発話の仕方をしているかが分かる。頭の中で既に考えが整理されているのではなく、まさにその瞬間に立ち現れるものに気づき、そして次の瞬間それに対して新しい言葉を発しているという感じだ。一方で頭の中で既に用意されていた言葉や文章というのは整っている。しかしそれは既に、経験した過去に対する、既に経験した思考であって、今この瞬間に生まれたものではないのだと思う。自分の中で既に何度も問いかけたことのある問いであっても、今この瞬間の体中そして外界との境界とその先の感覚に照らし合わせて、その集合体としての答えを口にすることができたなら、人はどんな瞬間からも学び、気づきを得ることができるのかもしれない。

何故オランダに来たのか。この、過去に対する問いは、何故今オランダにいるのかという問いほど強くは今の自分を著述することができないと数日前に気づいたところだったが、それはまた違うのかもしれない。今この瞬間に対する問いでなくても、今この瞬間の自分自身に照らし合せて向きあうことができたら、そこには新たな発見があるのだろうか。そういう意味では、コーチが発する、クライアントにとって価値ある問いとは何だろうかと、どんな問いもその問いと自分をどう結ぶかという向き合い方の問題なのだろうかと、そんなことを考えている。

文語を使うという観点に立ち戻ると、文語では時制や前後関係、因果関係、論理展開を整えなければならない(気がする)という点から、表現の幅が非常に限定的になる気がしている。文語と口語は、墨汁を使うか、磨った墨を使うかくらい、大きな違いがあるように思う。そこには、曖昧さや濃淡、擦れや揺らぎが取り除かれた整然とした世界がある。人は、言葉を書き留めるという行為を通して、言葉になりきれない小さな塵をこの世界からなかったことにしているのかもしれない。しかし、限界があるがゆえに、その限界の外側に置かれたものに気づくことができるのかもしれない。限界があるもので表現するがゆえに、そこでは表現しきれない、表現したかったものが何だったかに気づくことができるのだろう。文章にするというのは、文語という限定的な表現に、今ここに湧いてくるものをどう載せていくかのせめぎ合いでもある。ここにあるものが既に真実ではないことに気づきながら、立ち現れるものに向き合い続けている。

墨汁を使って、文字とも記号とも言えないものを意識的・無意識的に書いていると、今朝感じたモヤモヤについての答えが降りてきた。小さい声で、でも全力で、子どものように感情を訴える心があった。大人の道理や、世間的な常識、生きていくための合理性で考えると何を言っているんだと、とは言えと、なだめ、自分を説得することが当然のこと。でも私は、もうその気持ちをなかったことにして平然としていることはできなくなってしまっている。心の奥深くにある小さな声に気づけることは、必ずしも生きやすくなることとは限らない。それでも、この声を無視して生きることも、もうできない、したくないのだから、どうにか現実世界と折り合いをつけていくのだろう。この感覚が、せめて誰かの役に立つものであることを願っている。2019.03.23 20:55 Den Haag