これまで書いてきたものをまとめている間に随分と時間が経った。風が強まるのとともに、かもめの声が重なり合い、そして去って行った。向かいの屋根に登った大人と子供が、ポールの先にカモメの形の凧のようなものを括り付けた。その下のベランダを、いつも中庭を散歩している襟元と足先に白い毛をたくわえた黒猫が通り抜ける。向かいの家族は大きな薄暗いリビングで食事を始めた。にわかに書斎の窓の横を、バタバタと黒い塊が通り過ぎた。書斎に来たときにガーデンハウスの屋根に丸まっていた若い黒猫だった。かもめの形の凧がバタバタと風の中で上下している。オランダ人の友人は風の強い日に「これがオランダの天気だ」と言う。カモメの形の凧の上がる空は、オランダで育った人にとって、日常の景色なのだろうか。庭の木の枝についたつぼみのようなものはもう開き始めているように見える。花というより、新芽が伸び始めているようにも見える。

これまでの日記をまとめながら、インターネットの世界は、人間の感覚に大きな変化を与えているように思った。まず迷ったのが横書きで段落の始めの一文字を開けるかどうかである。画面上に表示される文章として視認している限りでは横書きで字下げを行わないことに違和感はなかった。しかしこれをPDFの「文書」としてまとめようとしたとき、途端に段落の始めの一文字は開けなくていいのだろうかという疑問が湧いてきた。字下げと呼ばれるこの作法が、下げるという行為を名前にした通り、縦書きの日本語特有のものかと思ったがそうでもない。そもそも、字下げは何のために行うのか、「決まり」という理由以外で習わなかったような気がする。何か、日本人固有の原初の感覚から来ているのかと言えばそうでもないようだ。「決まり」というのは単にその時代に植え付けられた慣習に過ぎないということを実感する。

インターネットの世界が出来て大きく変わったものと言えば、新しいものを古いものの上に積み重ねて書けるようになったことだろう。石版や紙に文字を刻んでいくときに、新しいスペースは常に既に書いたものの下にあったはずだ。(もしかすると下から上に書いたものというのも存在するのだろうか。)新しく書く文章を既にある文章の上に入れられるようになることは、今という瞬間が、これまで流れてきた時間に続くものであるということを忘れさせるような気がする。それによって人間は。イノベーションと呼ばれるようなこれまでの概念に囚われない新しいものを生み出せるようになったのかもしれない。今は過去の積み重ねであるとも言えるし、今この瞬間にただ立ち現れてくるものだとも言えると思う。少なくとも、歴史の教科書を読むように、出来事と結果が一本の道でつながっているようなものではなく、今この瞬間にいくつもの選択肢があり、その選択の積み重ねの結果として、道のようなものが見えるだけなのではないかと、今は思っている。

そうこうしているうちに向かいの家族は食事を終え、一定のリズムで鳴くいつもの鳥が、いつもより少し濁った声で鳴き始めた。風が弱くなったのか、かもめの形の凧はポールから伸びた糸にぶらさがるようにはためき、そしてまたポールの上に舞い上がった。2019.03.23 13:04 Den Haag