今日の対話を通じての気づきの一つは、自分にとって情報が大きな刺激として脳と身体に影響を与えているということだった。情報というのは特に文字情報であり。何らかの意味を伝達する役割を持っているものとも言える。日本を離れてまず感じたのが、文字が情報として入ってこないことの心地よさだった。母語ではない言葉に囲まれると文字を意味に変換するには意識的な操作が必要だ。それが日本語になると、無尽蔵に見たものの意味が脳内に流れ込んでくる。それは一見、変換操作を必要とせず、エネルギーを使わずに済むように思えるけれど、私にとっては、頭や身体の余白が減り、感じることが十分にできなくなることにつながるように思う。

私が今、オランダに身を置き続ける理由の一つはそこにある。自分を無防備に情報に晒さず、そして身体の中とその周辺の空間に起こる微細な反応を捉えることのできる澄んだ状態を保つ。お茶も書も、日々の活動はそこに向かっていくために行なっているとも言えるだろう。

物事を肯定的に捉える・視点を変える・言葉を意図的に使う。様々なコーチングのスキルやテクニック、心理学のメソット・考え方の指針を学んできたけれども、その先に行き着くのは、意識や視点・言葉という枠組みを超えて、ただ純粋な存在として相手が発しようとするもの全てをそのままに見つめ、そこにあるものが恐れや葛藤、喜び、悲しみ、どんなものであってもその存在そのものを祝福するという在り方なのではないかという気がしてきている。介入者や支援者というのはともすれば烏滸がましく、あるとすれば生きていることによって起こる全てのことを一緒に見届け、そこにある生命の揺らぎや振動を感じることを共にするということなのかもしれない。

今日も静かな闇が心地いい。2019.03.22 21:09 Den Haag