気づけば今日も青みを帯びた空気が空間を包み込んでいる。今日は朝から3日分の時間を味わったような、そんな1日だった。時間の流れの感覚というのは、目の前に流れる時間に対する集中度合いに起因するのだろうか。いや、目の前に流れる時間を、身体の中でどう味わうか、ということかもしれない。考えもしたこともない問いを身体の中で咀嚼して、体感覚に照らし合わせ、そこに生まれた鉱石のようなものを組み上げてくる。そしてそれを言葉に変換する。私の場合、これらのプロセスには時間がかかる。端的に結論から話そうとすることは表面的な情報であって、残念ながらそこに新しい発見も、他者の内面と呼応し合うような、空気の揺れもほとんどなように思う。文章の最後に否定語をつけることのできる日本語やドイツ語は、ああでもないこうでもない、こうかもしれないと思いを巡らせることに向いているのかもしれない。哲学者が生まれやすい言語体系というのはあるのだろうか。言語体系は思考にきっと何らかの影響を与えているのだろう。

対話というのは、起こっているその瞬間だけでなく、その後の思考にも影響を与える。これはどういうメカニズムなのだろうか。「話した内容を覚えていて、それが何かの拍子に思い出され、再び思考を始める」というのとは少し違う反応のように思う。何か小さな小さな粒子のようなものが細胞にくっつき、それが日常の中で少しずつ刺激を受けて形を変え、あるときその存在に気づくような。情報に熱量があるというようなことが発見されているということを聞いたが、人間が言葉もしくは言葉にならないものをやり取りするコミュニケーションと呼ばれるもので交わされているものは、何か人間の脳や身体に科学的刺激を及ぼすものが含まれていると感じる。それは医学的には、コミュニケーションによって起こる脳への刺激から何らかの脳内物質が分泌されると説明されるのかもしれないけれど、もっとダイレクトに身体に影響を与える粒子のようなものが飛び交っているのではないかと思う。今日の私に何が起こったのか。それはもっと後になって気づくことになるのだろう。

人と話すもしくは、環境からの影響を受けた私はもうそれ以前の私ではない。朝、行ってきますと出て行った人が、夜帰ってくるときには全く別人になっているというくらいの違いが起こっているように思う。それでもただいまと同じ家に帰ってくることを行なっているのは、新しい細胞に伝達された「記憶」と呼ばれる成分によるものなのか。記憶は私たちが安心して、エネルギーを抑えて生活をするのにはとても便利なものだけれど、時に目の前の人が自分が知る人がではなく、話される言葉の意味が未だ知らないものであるということを忘れさせる。

今日も、向かいの家々にはオレンジ色のやわらかな明かりが灯っている。変わらないように見えることの美しさも、そこには存在している。2019.03.22 20:30 Den Haag