2時間前よりも、少し空が明るくなった。来週からまた、長時間の移動と暮らしから離れた環境で過ごすことに向けて、自分自身を整えておきたいという想いがあるように思う。整えるといっても、静かに暮らしを営み、小さな気づきに目を向けるということをただ続けていくということだろう。

先日日本から届いた習字のお手本を元に筆ペンで文字を書きながら、日本語はつくづく、縦書きの文字だと思った。そして漢字とひらがなというのは書いている体感覚が全く違う。ひらがなは漢字から来たものと言われているけれど、それは一度、漢字をあてられた、体から出た話し言葉が、また体から出る言葉に戻ったような、そんな感覚だった。書の中にある時間をもっと感じてみたいと思った。今日は墨を磨ることにはこだわらず、書の中にある時間の流れに意識を向けてみようと、道具を出す。硯に墨汁を注ぐと立ち上ってくる墨の匂いが、小さな頃に通った書道教室を思い起こさせる。

いつまでも書き続けられるペンとは違い、筆で書き続けられる時間には限りがある。そこには、終わりのある、生が存在している。誰かの書いた書に向き合うということは、そこにあった生に向き合うということなのだろう。いくつかの漢字を書き、そして頭に浮かんできた一文字を何度か書いた。体全体で今ここにある環境を感じながら、腕先にそれを出力していく。しかしそこでも、外側の何かを感じるということが同時に起こっている。どちらが作用でどちらが反作用なのか分からない。書というのは、今この瞬間に立ち現れてくる啐啄のようなものなのかもしれない。

「不」というのは、打ち消しの意味があるけれども、それは同時に打ち消す何かが「在る」ということをも表しているのかもしれないと、現れたものを見て思った。不であることは、何かの状態に安定しているわけではないということ。それはやはり生きている様につながっているような気がする。そして次に浮かんできたのは「四十而不惑」(四十にしてまどわず)。諸説あるけれども、今の私には「四十而不或」(四十にしてくぎらず=限定しない)というほうがしっくりくる。いずれにせよ、天命を知るのは五十になってからだったのだ。今、気づいた気になっていることが、もっと大きな宇宙の一部に過ぎなかったことを、これからも知っていくのだろう。「『まだ知らない』ということを知る」ということは、人や世界に向き合うときの、私のテーマなのかもしれない。

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