ハーグの今日の空は、一面にグレーがかった雲が広がっている。実際には、目に入る限りずっとその空が見えているので知識や経験からの「雲がある」という認識で空を見ている私がいる。昨晩寝る前に、あるコーチとそのコーチからコーチングを学んだアクティングコーチの対談の動画を見ていた。アクティングコーチとは、平たく言えば役者さん専門のコーチのようだ。演技指導をするというよりも、その人の内面にあるものをより表現に映し出すことができるように言葉や身体活動を通じて関わる様子が非常に興味深かった。

中でも興味深かったのが、目の前のものと新鮮に向き合うという訓練だった。目の前にある椅子を、「椅子がある」と完了させてしまわない。これは何だろう。こんな形状をしている。こんな質感をしている。と向き合い続ける。その話を聞きながら、中庭で遊ぶ猫が、何度も見ているはずの景色をはじめて来た場所のように見つめている様子を思い出した。舞台、台本、衣装。人間が人工的に作り出した場の中に、人はリアリティを感じ、心動かされる。そこには確かに、深い悲しみや憎しみ、葛藤など、実際にその中に身を置くのは苦しいけれど、生きることの深みや複雑さを教えてくれる関係や感情がある。映画や小説もそうかもしれない。それにしても、人がそんなにも、実際に体験していることではないことを味わいたいと思うのは何故なのだろうか。日常の中で感じるリアリティを放棄して、どこかにあるリアリティを擬似体験する。とは言っても、全ては私たちが生きている中で起こり、体験していることだとも言える。入れ子のように、内側に新たな舞台をつくり、生の、「私」という人生の中に、ときに他者の姿を借りた「仮の私」の人生を浮かび上がらせ、それを体験する「私」。「仮の私」だと思っているものも実際には「私」の一部であり、そうすると今こうして思考し感じている「私」も、ひとまわり外側にいる「私」にとっては「仮の私」なのだろうか。書斎の窓から中庭で遊ぶ黒猫を見て、あれこれと思いを巡らせる私を見て、この体験を擬似的に体験している私がいるのだろうか。

アクティングコーチの話を聞いたせいか、何か強烈に、外の世界や他者とエネルギーをぶつけ合うようなことをしたいという気持ちが湧いてきている。静かに自分の中に起こる変化や揺らぎを感じるとともに、その境界線をなくした心と身体で世界の中を泳ぎたい。それは、この静かであたたかな箱庭の中にいる私が、混沌とした現実世界に出て行くということなのだろうか。この感覚は、はじまりを待っている次のステージのいとぐちとなるような気がしている。2019.03.21 Den Haag