三日ぶりにハーグの自宅に帰ってきた。階段を上がり、寝室の扉を開けた瞬間、「帰ってきた」という感じがした。この天井の高さがちょうどいい。そして、寝室とお茶の間を抜ける”気”が気持ちいい。ここには思った以上に、もうすでに、帰ってくるべき暮らしがあった。注ぎ口の細い、お気に入りのケトルでお湯を沸かす。シュシュシュシュと湧き出すお湯の音を聞く。感覚が身体の中に戻ってくる。背中の、少し凝っている場所が、全体ではなく部分として感じられる。

中庭では小柄な黒猫が花壇の縁を歩いている。今日はじめて見る世界を歩くように、首を伸ばし遠くを見つめ、おそるおそる、好奇心とともに一歩一歩を踏み出している。3階まで枝の伸びる背の高い木のくねくねとした枝の先についた蕾は白くほころんでいるように見える。今度は足の先とのどもとの白い、少し大きめの黒猫が中庭の小屋の屋根を歩き、小屋と小屋の間にするりと降りていった。張りのある澄んだ声で一定のリズムを刻むように鳴く鳥の声が、いつもより下の方から聞こえる。廊下に出ると、階下のヤンさんが何か作っているのか、玉ねぎが焼けるような香ばしい匂いがする。車の音に混じって時折トラムの音が聞こえ、向かいの家には明かりがともりはじめる。

東京で最後に暮らした部屋は、西向きに大きな窓があり、ずっと見つめていたくなるような夕焼け、そして、ときおり赤く染まったお月様が沈んでいくのが見える、静かで美しい場所だった。真っ白な壁に囲まれた小さなベッドスペースに横になり窓の向こうを見上げると、空に浮かんでいるような、そんな感覚に包まれる場所だった。欧州に拠点を移してから、いくつのもの場所で生活をし、そこには日本ではおくることのできなかったゆったりとした心地いい暮らしがあったけれど、あの、この世界に生きていることをとても美しいと感じるような場所には出会えなかった。何か大切なものを手放してしまった。そんな感覚がずっとあった。

今、ここには、静かな暮らしがある。美しいと思う瞬間に日々出会うことができる。

この感覚が生み出すものたちに思いを巡らせ、言葉にしては消してを繰り返していたら、世界は青を通り越して黒に向かいはじめていた。まだ遠くで微かに、鳥の声が聞こえる。2019.03.20 19:22 Den Haag