一昨日から、宿泊先のホテルに滞在している。昨日の朝の日記を書き終えてから、何度か日記を書こうとするも感覚と思考が止まってしまっているかのような状態だった。打ち合わせやセッションをこなすも、特に体内の液体の濃度が濃くなりすぎて、微細な振動が感知しづらくなっているような感じだった。振り返ってみるとこの2日間、ここに、「暮らし手」ではなく、「サービスの受け手」としての私がいたように思う。毎日バスルームを掃除し、ベッドメイキングをしてくれる人がいる。レストランに行けば、食事が準備されている。そこにある関係は明確で、自分と他者、そして環境が明確に分節されている。ここでは私は作り手や提供者になることはなく、そしてそのプロセスで感じる身体的な刺激もない。何より、残念なことにここには電気ポットがなく、お茶を淹れて飲むことを全くしないまま二日間がすぎていた。身体は冷え、筋繊維がぎゅっと緊張をしている。気づけばそんな状態になっていたのだと思う。二日以上の外出には小さな急須を持っていくことにしているが、それはきっと、いつでも自分がささやかな作り手であるための儀式のようなものになっていたのだろう。お金を介してサービスと待遇を交換する関係の中で全くの受け手になることは、私にとっては感性や想像力を鈍らせるどころか停止させてしまうことなのだと気づいた。オランダでの暮らしが気に入っているのは、そんな関係の中でも、人と人として何かを交わすことが自然に生まれるところだ。カフェや商店、スーパーのレジでさえも、人々は何かしら、単なるサービスの提供者と受け手ではない言葉を交わしているように思う。



起きてベッドを整えること、チーズを削ってパンを焼くこと、洗い物をすること、掃除をすること、洗濯物を干してたたむこと、お茶を淹れること。その全てを誰かにやってもらったら楽かもしれないけれど、私はきっと生きているという実感を失っていってしまうのだろう。働くことが、そこから直接喜びを得ることではなく、時間空間を超えて何かを手に入れることのできる、お金という一見便利なものを手にする手段になったときにボタンの掛け違いは始まり、そして今人間は、テクノロジーによって生きている実感を得るプロセスを失い、生きている実感を他の何かで得ようとすることに忙しい。

こんなにも環境は感覚と思考を変えるのか。それに今までなんと無自覚だったことだろう。


同じ環境の中でも、何かもっと他のことを感じられるようになるときがくるのだろうか。
日の出とともに聞こえ始める鳥の声と、陽の光に照らされて輝きを増す、これから芽吹こうとしている木々が美しいと感じられることに、まだ僅かに希望を感じる。
こんなにも帰ることが恋しい場所に出会えたことは幸せなのかもしれない。次の旅に向けて、明日からまた、ささやかな暮らしを楽しみ、感覚と思考に向き合うことを続けていこうと思う。2019.03.19 21:22