久しぶりに深い眠りの中にいた。いつもとは違う、少し軽やかで透明感のある鳥の声が聞こえてくる。

街のはずれ。折り重なる木々は、まだ冬の、カサカサとした薄茶色の枝を伸ばしている。

ぼーっと木々を眺めていたら、オレンジがかったふわっとした枝に包まれた木々、そしておそらく白い小さな花をつけている木々が浮かび上がってきた。

人の暮らしがある場所ではないけれど、少しずつ、この場所が起き出す音が聞こえてくる。


朝の訪れを感じることができて窓と並行に日がさしているということは、この部屋は東に向いているのだろう。


今日はどこで1日をすごそうか。

こうして言葉を探しながらも、思考が働くのを止めようとする自分がいる。

もう少し感覚の中に、感覚になる手前と、そして言葉になる手前にいたいようだ。




昨日、日本語を教えているインドネシア系オランダ人の友人に、「ひかり」と「あかり」の違いは何かと聞かれた。
英語ではどちらも「light」なのだろう。



調べてみるとひかりは自然から生まれたもの、あかりは人の手によって作られたものとあった。

ひかりはただそこにあるもの、あかりは何か目的があってそこにあるものとも言えるかもしれない。

ひかりは「光」、あかりは「灯」。「灯」は台のようなものに火をともす様子を示している。

しかし、あかりは「明かり」とも書く。「明かり」は、窓から月の光が差し込む様子を示していると言う。

確かに「月明かり」という。月明かりは人が作ったものではない。
日本語ではなぜ「月の光」を「月明かり」と呼ぶようになったのだろうか。



そんなことを考えながらベートーヴェンの『月光』そして、ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』の第3曲『月の光』を聴いてみた。
『月光』は、重いの中に垣間見える僅かな光を、『月の光』には柔らかい光の中に時折通り抜けるうろこ雲のようなものを感じる。

そこにあるひかりに共通するのは、揺らぎと儚さ、そして、闇とともにあるということ。


人が太陽のひかりではなく月のあかりに神秘的なものを感じるのは、それが、常に闇とともにあり、移りゆくものであるがゆえなのかもしれない。



かつての日本では、暗闇の中で何かを照らし出すものを「あかり」と呼んだのかもしれない。
夜道を照らし、食卓を照らし、勉強机を照らすあかり。


太陽はひかりで世界を包み影を作り、月のあかりは暗闇を照らす。




欧州で暮らすようになって、暮らしの中にあるのは「あかり」なのだということを感じる。

日中も夜も電灯を点けない。小さなお店も電灯が点いていなくて「閉まっているのかな」と思うこともあるくらいだ。
オランダの自宅の書斎の窓から見える一家も、薄暗くなり始めるリビングの中で夕食をとり始め、いよいよ暗くなるというときにやっと、あたたかい色の、控えめなあかりをつける。


そういえば「ひかり」と「あかり」の話が始まったのは、ある、光の差し込む空間の写っている写真を見て「これは”でんき”ですね」と言われ、「電気は、人工的に作られた光のことで、この場合は『ひかり』か『あかり』だと思う」と伝えたことからだった。

「ひかり」「あかり」「電灯」「電気」「照明」…言葉は世界を分節しているが、その文節の仕方は言語の種類によって違い、その関係が必ずしも1対1で対応しているとは限らない。




 

「ひかりあれ」


これは、本当は、どんな意味だったのだろうか。2019.03.18 10:55