今日は久しぶりにどら焼きを作った。年末年始に日本から来ていた友人が教えてくれたレシピを使って、何度も作っているが、コツを掴んだと思っても次に同じようには上手くいかない。今のところ、どら焼き作りは私にとって、お茶をいれるのと似たような、自分自身に直面する時間になっている。どら焼きのタネは、どらさじと呼ばれるおたまを浅くしたような(視力検査で使う器具のような)道具を使って鉄板(フライパン)の上に垂らす。このときのコツは、どらさじを傾け、落ちていくタネを丸い形にしようとしないことである。最初はだいたいくにゃくにゃと変な形でタネが垂れていくが、円を書いたりしようとせず、ただどらさじを傾ける。こうしているとタネは自然と丸い形になっていく。信じて待つというのは人間に対しても同じことだと、はじめにどら焼きの作り方を習ったときにいたく感心したものだ。

その原理は分かったものの、毎回綺麗な丸ができるかというとそうでもない。少しでも何か他に考え事をしていたり、先を急ごうとすると、見事にそれはタネの形に反映される。意識や集中というのはいかに移ろいやすいかということを思い知らされる。教わった通りの材料の割合でタネを作っているにも関わらず焼き上がりの質感も毎回違う。前々回は焼き色をしっかりつける面に細かな気泡のようなものができ、前回はタネがあまり膨らまなかった。それは当然と言えば当然で、毎日気温湿度も違えば自分自身の状態も違う。毎回同じ形で同じ質感のものができるわけがないのだけれど、均質に見えるものを買うことに慣れていると、あたかも自分もそれができて当然だと思ってしまうようになるのだろう。

そういえば煎茶のお店で働いているときに常連の方が言っていた。「ここにお茶を飲みにくるのは、毎回、淹れる人によってもお茶の味が違うからだ。だから飽きない。」と。お茶は確かに、淹れる人はもちろん、その場の空気で味が変わる。お茶というのはつまりはほぼ水であって、水はその空間に充満する空気の粒子や淹れ手のもつ気の流れと呼応しあい、それがお茶の味となって現れるのだと思う。もちろんそれぞれのお茶の持つ味わいを引き出すというのは淹れ手として然るべきことなのだけれど、書と同じく、今この瞬間にあるものの媒介となれるのがいいお茶の淹れ手であり、そんな人の淹れたお茶は、飲む人の心と身体に染み渡っていくのではと思っている。毎回、同じ手順で同じものを作ろうとする。だからこそ、そこに誤魔化すことのできない「今」が溶け込み、滲み出ていく。

数年前に世界中のお茶を、それぞれ、いつも同じ味で淹れることのできるコーヒーメーカーのようなマシーンを発売したベンチャー企業があったけれど、残念ながら数年でビジネスは閉じられてしまった。その理由は色々とあると思うけれど、人は、速く均質なものを手にすることではもはやこれ以上は幸せにはならないことに気づいているのだと思う。そう分かっていても、いまだに私たちは、効率よく何かを手に入れることでその分時間ができて人生が豊かになると信じているような気がする。このテーマについてもう何度も考えてきた。手段だったはずのものが、気づいたら目的になっている。人を幸せにするはずだったはずのものが、それを手に入れるために人生を費やすことになってしまう。お金や物を手に入れることが全て悪だとは言わないけれど、どこかで立場が逆転してしまうポイントがある気がしていて、いつかそれを解明してみたいとも思う。

いやしかし、本当に、目的と手段というものは存在するのか。明確に線引きをして分けられるものなのか。どんなプロセスの中にも、結局はその人が手に入れたい何かの経験が含まれているとすると、ここまではいいけれどここからは良くないという考え方をするのもお門違いなのかもしれない。それがどんな内容であったとしても一つ一つのプロセスをじっくりと味わっていくことに意味があるのかもしれない。ただそこに、有限な人生の時間と、有限な地球の資源を考えるとどうなのだろうか。それとも、人間も長い時間をかけて、変化が伝播し、受け継がれていくものだと考えると深刻に案ずることもないのだろうか。2019.03.16 23:33 Den Haag