日記をつけはじめてから、どうも体内時計が不思議な動きをするようになった。過ごしている時間の長さに関する体および意識を通しての感じ方が変わってきているというほうがより近いかもしれない。こうして自分自身の思考と感覚に向き合う時間を過ごすごとに、カレンダーの日付が一日ずつめくられていくような感じがしている。実際に、昨日に書いたものには誤って今日の日付を入れていたことに先ほどの日記を書いたときに気づいた。1日は長いようでいて、こうして静かに自分と向き合う時間というのは意外と少ないのかもしれない。今朝感じた不思議な感覚も、この時間を持っていることと関係しているような気がする。思考や感覚の解像度が上がり、脳が時間を錯覚しているのかもしれない。

新しい感覚をもって、筆をとりたくなった。多めに墨を磨り、軽く線を引きながら、こうしようと思うことをやり、そして手放していく。そして、これまでの経験のどこからか引き出してきたのではなく、今この瞬間が絡み合ったと思う線が現れた。線なのか、模様なのか、もはや分からない。何か惹かれるものがある。それは、墨がのったところとそうでないところがつくる、どちらが主とも言えない部分があることだった。書とは、墨で何かを表現するものではなかったのだ。私たちは「ある」ものに目がいく。あたかもそこに何かが表現されているかと思い目を凝らす。少なくとも文字は、線の組み合わせであり、線がある部分に意味がある。そう思ってきたことに気づいた。そこにあるように見えるものとそうでないものが絡み合い、一見、白黒の境目がハッキリしているように見える部分に「あわい」が生まれることが、書の楽しみであり味わい深さなのかもしれない。

一昨日、日本にいる父からメールが来ていた。今年に入って腰の調子を悪くした父は一時期ほとんど外出ができず、日々の日課であり楽しみにしていたウクレレの練習にもあまり行くことができなくなっていた。ようやく少し調子は良くなってきたようだが、もうあまり使うこともないからと、車を処分したことが短く添えられていた。「40年以上運転をしてきたのでちょっと寂しい感じもします」という、その短い言葉の中に、これまで身体の一部のようになっていたものがそうではなくなる喪失感のようなものを想像した。私が記憶する限り、父は特段、車や車の運転が好きだというタイプではなかったように思う。しかし、多くの場合そこには家族の時間があり、そしてその先に、自然を楽しむ時間があった。車を処分したということは、例えばあの、いつか風の通り抜ける庭を作ろうと、毎年伸び放題になった竹を刈ることだけは続けていた場所にももう行かないということだろうか。人生とは、世界を広げ、そしてまた、閉じていくことなのか。自ら、拡張した身体性を閉じる選択をしていかなければならないことの残酷さを感じるとともに、そこにあるのが喪失感や悲しみだけでなく、それでも残ったものの中に、穏やかな何かがあることを願わずにはいられない。2019.03.16 14:27 Den Haag