一昨日、起き抜けに飲んだ水がいつもよりまろやかで美味しく感じた。いつも使っているグラスをどこかに置きっ放してしまったので、とりあえずと、戸棚にしまっていた有田焼の蕎麦猪口に水を入れて飲んだときのことだった。厚みのあるガラスとは明らかに違う、口に優しく沿う感覚。口からすっと離れていく瞬間が心地いい。美味しさというのは、口に含むものにについた味、匂い、見た目、そして口に触れるものが重なり合って認識されるものだったのだ。この美しい口触りは、器を持ち上げ口元まで運ぶ日本人の民族的習慣が作り出したものだろう。

そう言えば先日うちに来たインドネシア系オランダ人の友人にお茶を出したときも、飲み終わったカップを光に翳すとカッブの底に芸者の柄が現れるという珍しい造作についてよりも、そのカップの薄さについてまず話題にしたのだった。器というのは素材によって口当たりも変わるというけれど、多分そうなのだと思う。意識することもなくその美しい形を日々口にする環境の中で育ってきたことと、それを新鮮に認識する機会に出会えたことがありがたいと思う。自分たちのもつ、特に歴史的・文化的・民族的な慣習や特異性というものはその外に出てはじめて体験することになる。

私は今、オランダに住む日本人であるけれど、日本に行くともう自分が日本人ではなくなっていることに気づくのだろうか。

そんなことを考えながら、ふと書斎の本棚に目をやると禅語の本が目に入った。今日は外部からの刺激がなかったため、何か気づきのきっかけになることを欲しているのだろう。何枚かページをめくると「隻手音声(せきしゅのおんじょう)」という言葉が目に留まった。白隠和尚の「両手を打ち合わせれば音がするが、片手の音はどうか」という有名な問いだと書かれている。

これは人と人との対話についても言えるのではないか。二つの手が打ち合わせられるからこそ音が出るが、片方の手では音が出ないからと言って、そこに何も存在していないということではない。それぞれに、確かに何かがあるからこそ、打ち合わせたときに音が鳴るのだ。もし目をつぶって、体と手の感覚が切り離された状態があるとして、両手を打ったならば、音がしたときにはじめて、そこに二つの手があるということに気づくのだろうか。私たちが日々考えていることも、こうして文字になっていることであたかもそこにあるかのように見えるが、誰かの考えと出会ってそこで鳴った音を聞いたときにはじめて、そこに何かがあるのだと、やっと体験として知ることができるのかもしれない。

暗く鳴ってきたせいか、中庭の向こうの家にはそれぞれ明かりが灯り始めた。今日も静かに、それぞれの時間が流れている。2019.03.15 18:54 Den Haag