日本時間の朝7時から開催されるコーチングのトレーニングに参加したら、すっかり目が冴えて眠れなくなってしまった。1対1のコーチングをした後も脳が覚醒して眠れなくなるが、今日はそのときよりもさらに高揚した状態にあるように思う。複数人でディスカッションをする電話会議というのは、こうも刺激が強いものなのだろうか。仕事のミーティングとはまた違った、必要以上の緊張感を多少伴った時間だった。最近すっかり落ち着いた生活の中にいたせいか。「正しくあらねば」という気持ちも働いていた気がする。



不思議なことに、視覚を一緒に使うときよりも、聴覚だけのほうが脳への刺激が大きいように感じる。人はその情報の多くを視覚情報から手に入れていると言うが、視覚情報があることで、ある意味惰性のような、「コミュニケーションをしている風」「わかった気になる」(多少の思考停止)が起こることもあるのではないか。聴覚情報に本当に集中しようと思ったらとてもエネルギーを使う。(視覚情報も本当に集中しようと思ったら同じなのかもしれない)今はほとんどのコーチングセッションは聴覚情報のみで行なっているけれど、耳と心を澄ませる力が上がったのか、言葉以外のことも感じられるようになったように思う。クライアントの言葉が身体のどこから出てきているのか、それはどんなエネルギーを伴っているのか。これらは瞑想やエネルギーワークを通じて身につけた感覚かもしれない。



今の自分自身の限界があるとすると、クライアントが生み出す課題がどのような意識の構造から生まれているのかを、分かったような気になること。そして自分の思う正しさを手放すまでに、一度、視覚化するプロセスが必要だということだろう。先ほどのトレーニングに対するフィードバックを思うままに書き込んだら、あまりにも自分の視点が固定的かつ比敵的・妄信的になっていて、なんと傲慢な態度だろうと恥ずかしくなった。文面を書き直しながら、「そうだ、こんな見方もできるのだ」と納得する。何かが多少なりとも、分かるようになった、できるようになったという気持ちは恐ろしい。自分の中の純粋な好奇心と探究心を持って、クライアントに向き合い続けたい。



それにしても、傲慢だと分かっていてもあえて分析をすると、人の思考と対話というものはその外側にいる人にとってはそこで起こっていることがよく分かるものだ。そしてつくづく、人は人の話を聞いていないし、一つの言葉の意味がずれていることに気づかないまま、あたかも分かり合っているかのように会話は進んでいってしまうように思える。言葉の定義をいちいち確認しなくていいことはコミュニケーションを効率的にしているけれど、その中では、分かり合うことも、分かり合えないことも新しい何かを一緒に生み出すことも難しいのではないか。何の疑問を持たないときほど、何かずれがあるのではないか?と立ち止まりたい。



こうして書きながら、書斎の天井の電気も、デスク灯もつけっぱなしにしていたことに気づいた。夜中に行うコーチングセッションの違いは、この明かりだったのかもしれない。いつもは夜のセッションは電気を消して、パソコンは開くにしろ、ほぼ暗闇の中でクライアントの言葉と言葉にならないものたちに耳を傾けている。視覚的な明かりというのは、こうも脳を刺激するものか。明かりというのは、人を多少、分かった気に、傲慢にさせるのかもしれない。(という自分への言い訳をしつつ…)次回は、明かりを消したらまた違ったものが見えてくるかもしれない。2019.03.15 2:23 Den Haag