ハーグは今日も朝から雨が降っている。庭に生えた複雑な形の細い枝をたくさんつけた木の枝先についているつぼみたちが少し膨らんでいるように見える。ガーデンハウスの屋根を走り回る猫たちを最近見ていない。雨のときはどこでどんな風にすごしているのだろう。

少し前に、書道を再開した。正確には、私が小さい頃にやっていたのは習字であって、そこでは美しい文字の基準というものがあったけれど、書道は自由に表現をしていいのだと知って、墨を使って筆で文字を書くことを、今は書道と表現するのがしっくりくると思っている。最後に筆を持ったのはいつだっただろうというくらいだったけれど、身体はちゃんと覚えていた。止め跳ね払い、斜め45度に筆をおけることは、自分が日本人であることが身体に染み付いていることを実感させる。それと同時に、「正しさ」がある世界で生きてきたということも。私がやってきたのは正しさの複製であったけれども、その中には整えることのできない自分自身が滲み出ていたのだろうとも思う。書道も、自分を表現するものではないと理解している。ここでいう自分とは、「物理的に視認することのできる空間との間に明確な境界線を持つ有機的な物質の塊」であり、「その中にあるとみなされている心や脳の作用によって起こる何か固有の信号のようなもの」でもある。「何か閉じた空間を満たす自分というものがあって、それには独自の色がついていて、その色を、書でも表現してみる」というのが書を通じて自分を表現することだとすると、今の私にとって書は、その瞬間にそこに存在する環境が、そこにある身体と呼ばれるものと、筆、そして墨を通って、半紙の上に投影されるということだと考えている。美術家の篠田桃紅さんが言う「そのときに居合わせた私がいて、そういう時と空間と私がそこにいたということでしかできないものをつくる」ということはきっと今はまだ、頭と体の僅かな部分で理解しているだけにすぎないと思うけれど、そういうものなのだろうと思う。

先日、日本から届いた墨液を使ってみたけれど、どうもしっくりこない。墨を磨るというプロセスを通じて、私は環境と一体になっていたのだ。墨を磨るのは面倒だし時間がかかる。でも、あの水と、小さな黒い粒子がこすれあい、混ざり合っていくときに、呼吸を通じて入ってきた環境と私が一体になり、そしてそれが墨の中に染み出していく。今の私にはそのプロセスがとても重要なものに思えるけれど、これはまた経験を経ると変わっていくのだろうか。墨を磨るというのは自分自身が整うプロセスでもある。できあがった墨液を使っていきなり書き始めるのは、掃除をしないで突然お茶をいれ始めるような、そんなガチャガチャとした始まりのように思える。そういう自分では当然、芯のあるお茶をいれられなくて、でもお茶をいれるプロセスでも自分自身が整っていくように、書と向き合うことそのもので心が身体の中に戻ってくる。それももちろん大切な時間でありプロセスなのだけれど、自分を整えることを超えて、意識の外側にあるものと書を通して出会うために、ちょっと面倒な支度のプロセスを敢えて経たいと思う。

そういえば私はこのところ毎朝チーズをスライサーで削り、パンの上にのせている。スライスされているチーズを買えばこの手間は省けるのだけれど、この、チーズを削るという作業が、今日という世界と私を結びつけるとともに、体感覚と私をつなぎなおしてくれるような気がする。

こうしている間に、ブラインドを降ろさないと眩しいくらいに日が差し込み、そしてまた翳り、今度は風が吹き始めた。2019.0314 12:12 Den Haag