パソコンで作業をしているときにふと、白と透明は、どう違うのかという疑問がわいた。白い背景の上では、見かけ上は青から白へのグラデーションも、青から透明へのグラデーションも同じように見える。透明はつまり、その下にある色が見えるということなので、白い背景があるのであれば青から無色のグラデーションはつまり青から白へのグラデーションということになるのは当たり前といえば当たり前のことだ。とすると、透明とは一体何なんだろう。

空白・余白・留白…。これらの白という字は、色彩としての白色だけでなく、そこにspaceやblankがあることを示しているように思う。そもそも人間は、白と透明、どちらを先に認識をしはじめたのだろうか。今、私たちが膨大な量の情報を世の中にストックするようになったのは間違い無くインターネットの発達によってだろう。紙という有限なものから、仮想空間という無限に広がる(ように思われる)ものに情報を記録できるようになったとき、私たちは、情報を使う側から、情報に踊らされる側に回ったとも言えるかもしれない。パソコンのハードディスクの容量の限界、通信回線の限界、サーバーの限界。実際にはどこかに限界があるだろうものだが、今のところその仮想空間(と仮に呼ぶ)ものは無尽蔵に広がっているように感じられる。紙は物理的な厚みを持った面であるが、この仮想空間は、厚みを持たない面の集合体であり、仮に色の粒子が僅かながらも厚みを持つとすると、透明な面の集合体ということになる。私たちはそこに、擬似的に白という色をつけて、これまで向き合ってきた紙と同じように扱っているけれども、実体のあるものとは本質的に違うのかもしれない。だからこの透明な空間には、実体のないことがどんどんと蓄積されていってしまうのだろうか。

空白・余白・留白というとき、これらの「白」は、色の白を表しているだけではないけれど、永遠に広がる空間ではなく、限りあるものを示しているように思う。でないとわざわざ、言葉にして表現しないのではないか。それでいて、真っ白な紙(カラーコード#ffffffで示されるような色に近い紙)が化学薬品を使うようになってから作れるようになったと仮定すると、それは早くとも18世紀中頃以降だと考えられる。一方で無色のガラスが作られるようになったのは17世紀だということだ。ここで、無色と透明は違うのだということに気づく。透明は透過性があるということで、透明でも無色とは限らないけれど、無色であれば、それは透明であるはずだ。ここまでで人類が認識してきた「白」とは、私たちが今想像する真っ白に近い色ではなかったのかもしれない。そして、おそらく、真っ白より先に、人は無色透明を認識したのではないか。

 何か、無限ではないけれども他の色もしくは物で埋められていないものを人は「白」と呼び、その「白」に、今私たちが認識している白をあてはめたのだろうか。空白も余白も留白も、何か面として限界があり、あくまでその中の一部が空いているということのように思える。ここで思わぬことに行き着いた。二次元的な何かで満たされていない面のことを「空白」と呼ぶのなら、それが三次的になると「空間」である。「あわい(間)」とは、やはり、空間的なものだったのだ。それを、平面で捉えると「白」になるということか。「space」は、時間的なことも空間的なことも表すので、限りなく「間」に意味が近いように思えるが、平面的な空きを表しているようにも思える。このあたりの感覚は英語を母語として話す人に聞いてみたい。(例えば紙の上の空白を示して「ここに間がありますね」とは言わない。言うとすれば楽譜の上で、時間的な空白を想像して「間」があるというときだろう。「空白の時間」とわざわざ言うことからも「白」は時間的な概念は含んでいないように思える。)「白」というのも、もしかしたら後から当てられた形なのかもしれない、「しろ」もしくは、何か他の発音で、平面的な空きのことを表していたのだろうか。

透明というのは、色の名前では無く、透過性という性質のことを表していることも分かった。残る無色とは何か。白と黒も無色に含めるという考え方もあるようだがそれは「無彩色」という意味で、白と黒という色は存在しているはずである。いや本当にそうなのか。。。無色とは何かについては今のところ結論が出ていないが、白についての考察をしたことで「白」という文字に対して抱くイメージが、広がり、そして、限定的になったようにも感じる。
2019.03.12 23:15 Den Haag