友人の勧めで日記をつけることにした。今年に入ってから手帳に日々学びや気づきを書き込んでいるけれど、それはあくまで要点をまとめたものであり、それとはまた違ったものになるだろうと予想している。コーチとして特に発達の観点から成長を続けたいというのが最近のテーマだったけれど、一つ分かってきたのは「どうしたら成長するか」に焦点が合わせられているうちは、その問題を解くことはできないのだろうということ。最近コーチングをしていて、アインシュタインの『いかなる問題も、それをつくりだした同じ意識によって解決することはできません。』という言葉の意味を実感する。自分が今向き合うテーマも、どうやったらそれを解けるかではなく、その問題がどういう構造から生み出されたものかを見つけ、それを捉え直すこと(おそらく、一つ高い次元から見ること)が重要であり、人間そのものについて理解と探求を深めていくことが結果的に、問題だったことが問題ではなくなることにつながるのだろうという気がしている。ある問題を解こうと思ったら、その問題にそのまま向き合ってはいけないということなのかもしれない。向き合ってはいけないというほどではなくても、そのまま向き合うことだけが解決の道ではないということなのだろう。


日々頭の中で揺れているものをこうして言葉にしていくことには少しの恐れもある。ああだこうだと考えを巡らせることをやめられなくなるのではないか。気づいたらパソコンに向かったまま年老いているのではないかという恐れ。私たちはどうも、現実の世界に対して何か行動をしたほうがいい、考えているだけでは何も変わらないというなかば脅迫に似た慣習に染まってきたのではないか。一日、本を読んでいた日は「何もしていない」という気になる。本当は頭の中で新しい回路ができ、見えるものさえ変わっているのかもしれないけれど、現実世界に何かアプローチをしなければ自分が存在している意味もないということに近い考えが染み付いている気がする。それも、そうだとも言えるし、やはりそうでもないとも言えるのではないか。お茶の時間は、さして何かをするわけではない。静かにただ、そこにあるものを味わう。ざわざわしていた心が静まり、体の中に戻ってきて、今度はざわざわとは違った何か大切なもの、宇宙からのメッセージを受け取る存在になる。鳥の鳴き声が聞こえ、自然の匂いを感じるようになる。来た時とは違う、少し、世界を優しく感じられている自分になっている。

こうして滲みでてくる言葉を目に見える形にしていると、環境が与える影響も強く感じる。リビングは通りに面していて時折トラムが通る。ひとけを感じて思考の休憩を取るにはいいのかもしれない。寝室にはベランダがあり、外の明るさを感じながらも、外とは少し隔絶された環境で、体感覚をのびのびと使うことができる気がする。書斎は寝室と同じく中庭に面しているがベランダはない。窓の外の環境の変化や生き物の動きを感じながらも目の前のことに集中することができる。今の私にとっては日記を書くというのは、書斎にいるということと同意語であり、小さな部屋の中一人、思考をしている(けれども、現実世界に何ら影響を与えていない)という感覚が充満してくる。しかしこれは感覚なのだろうか、ただの思考なのだろうか。これがだんだんと、もっと外の世界とつながるような感覚になっていくのだろうか。2019.3.12 13:49 Den Haag