949. これまでの自分が死を迎えるとき

 

あたらしい月がやってきた。

1月はどんな時間だっただろうと考えると「死」という言葉が浮かんできた。これまでの自分が死を迎え、新しい自分が生まれた。それは本当に、恐ろしくて不安で、先の見えない真っ暗なトンネルを歩くような、そんな時間だった。

そんな言葉を選ぶと何かとても苦しい時間だったように思うけれど、毎日はとても幸せだった。一日が終わるたびに、「今日も素敵な時間をたくさん過ごしたなあ」と噛みしめるような、そんな時間が重なって一ヶ月が経った。

これまでとは違う生活リズムになって、一旦手放したものがたくさんある。日記を書くことを含めて、これからまた、「これまで」との統合が起こっていくのだろう。

自分自身がより良い状態、静かでクリアな状態でいるために日々のルーティンがいくつもあったが、それは方法に過ぎなかったのだと分かる。やり方は変わったとしても、目の前のものごとや人に向き合うこと、目の前に現れることが大切なことを教えてくれる。

そうにも関わらず、これまでは随分と新しいことを足そうとしていたように思う。あたかも、新しいことをすれば、新しい自分が手に入るかのように。あたかも、自分の外側に大切なものがあるかのように。

人間や宇宙の謎を解こうとしたら、生きている時間では到底足りない。大きなものとしての「全体」を見ながら、自分自身の中にある宇宙と関わる人との間に育まれるものに目を向けて生きていくことができたら、そこには足るを知った深い幸せが訪れるのではないか。

1月に過ごした時間についてまた改めて振り返るかもしれないし、そうではないかもしれない。今はぼんやりと、こんなことを考えている。2021.02.01 10:16 Den Haag